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フリーダが愛した動物たち
フリーダ・カーロの日記には、インクの染みを起点に想像力を膨らませ描いた絵が多く登場する。アンドレ・ブルトンを代表とするシュルレアリストたちによる自動筆記は、当時芸術運動の展開に起用され、フリーダも彼らとの交流の中で「自動描画」を楽しんだと言われている。晩年の病床期が長かったフリーダは、こうした無意識下で書き描く文や素描を日記の中で楽しんでいたのかもしれない。



それにしても彼女の描く絵には動物が多く登場する。実際、コヨアカンにある自宅の青い家(カサ・アスール)には、「フーラン・チャン」という名のクモザル、「ボニート」という名のアマゾンのオウム、「グラニーソ」という名の小鹿、「ゲルトルーディス・カサ・ブランカ」という名のワシ、「セニョール・ソロトル」という名のイツクイントリ犬など、多くのペットが飼われていた。





特に、イツクイントリ犬は毛のない犬で一般にアステカ犬とも呼ばれ、その起源は3500年前に遡るそうだ。イツクイントリ犬は、アステカの暦である太陽の石にも1カ月=20日のそれぞれの日のシンボルの一つとして描かれている。





フリーダは、飼っていたイツクイントリ犬に「セニョール・ソロトル」という名前をつけていたが、本来、それはケツァルコアトルの変形である犬の頭をしたアステカの神の名前であるそうだ。アステカ族の先祖である一族の遺物をお守りとしてコレクションしていたフリーダ故に、愛犬に付けた名前もまた非常に彼女らしいネーミングになっている。



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点と線の国の奇妙なカップル 〜 ネフェリシスとオホ・ウニコ 〜
 フリーダの日記は暗喩が多い。「点と線の国の奇妙なカップル」と題する日記のページの中で、紀元前14世紀のエジプトの王妃ネフェルティティを「ネフェリシス」と称して登場させ、フリーダのシンボルともいえる太い一本の眉を描いた。

 

『フリーダ・カーロ 生涯と芸術(晶文社)』によると、1945年の『モーゼ』の作品にもネフェルティティが描かれており、それについて自身でも次のように書いている。『 <ネフェルティティ>は非常に美しかっただけでなく、「解放された女性」であり、賢明な夫の協力者であったに違いないと思う。』

 

ところで、王妃ネフェルティティの夫は、古代エジプト新王国時代第18王朝のアメンヘテプ4世「アクエンアテン」だったが、フリーダの日記に描かれたつれあいの名は「オホ・ウニコ(一つ目)」。「点と線の国の奇妙なカップル」は、「オホ・ウニコ」と「ネフェリシス」の二体一対とも言える像が裸体で互いに肩を組んでいる。フリーダは、自らとディエゴとの関係を色に捉えて「クロモフォロ」と「アウソクロモ」と称したが、ここ「点と線の国の奇妙なカップル」の中では、「ネフェリシス」と「オホ・ウニコ」として登場する。

 

さらに「ネフェリシス」のお腹には胎児が宿っている。生まれた子は男の子で、その名は「ネフェルニコ」。さらに彼の兄「ネフェルドス」の肖像画も描かれている。

 

エジプト王妃への興味は、フリーダ独自の世界に取り入れられると、その国は狂気の国「ロクーラ」となり、生まれた子たちの額には「第三の目」があり、首にはアステカの生贄の象徴である心臓をぶらさげているのだ。

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チョコレート伝説 〜メキシコのカカオから〜

フリーダの日記中には、時にチョコレートが登場する。まず、茶色を連想させるものとして、カーロは「モレ」と記しているが、これはメキシコ人である彼女にとっては自然なことだ。「モレ」はメキシコでは肉料理に使われる辛味のチョコレートソースのこと。チョコレートが菓子としてではなく、メキシコでは料理として使われているのだ。

 

そもそもカカオの原産地であるメキシコで、カカオを初めて栽培したのは紀元前約3000年も前に遡る。メキシコ湾近郊のオルメカ族が、「カカオ」という言葉とその植物をマヤ族に、後にアステカ族に広めたと言われている。マヤ族の間ではカカオは王家の飲み物であり、アステカ族はカカオの種を通貨として使用していた。

 

「チョコレート」という言葉は、ナワトル語の「カカワトルcacaotl」(カカオ水)から派生した言葉と言われているが、「ショコワトルxocoatl」(苦い水)から由来する言葉とも言われている。フリーダは、日記の中でページいっぱいに巨大なチョコレートを描き、ナワトル語で「ショコラトル(XOCOLATOL:チョコレート)」と記しているが、その巨大な板チョコの上部からは、芽吹くカカオの植物が描かれている。そういえば、フリーダが茶色から連想するものとして記したのは、チョコレートソースの「モレ」と 「土に落ちる葉の色」だ。チョコを大地と見立て、そこからカカオのつると木の葉が芽吹くイメージは、フリーダの茶色から連想されたものかもしれない。

 

アステカの大地をも想像させる巨大なチョコレート、その下には彼女が独自に作り上げたディエゴと自分を定義する言葉「クロモフォロ」と「アウソクロモ」が記されている。

 

 

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フリーダが愛した歌『La llorona:ラ・ジョローナ』〜泣き女の伝説から〜
フリーダの日記には、たくさんの涙と泣き顔が登場する。8頁に及ぶディエゴへの愛の手紙の最後に添えられた線描は、複数の瞳が木の根やこぶの隙間に描かれたもので、いくつかの瞳からは涙がこぼれている。フリーダが好んで使用したと思われる涙のモチーフは、彼女個人の痛みや悲しみを表現するためのものではあるが、実は、メキシコという国そのものにそうした伝説や背景が存在している。

 

ラテンアメリカの民間伝承による物語「泣き女の伝説(La llorona:ラ・ジョローナ)」も、その一つである。泣き女の伝説には様々なバージョンが存在するが、メキシコの民話を例にあげると次のようなものだ。白人のスペイン人の子を産んだ女性が、男に裏切られ狂気に陥り、自分の子を川に流して殺してしまう。その後、母親である自身も川に身を投げ死んでしまうのだが、彼女の後悔と悲しみは魂となって泣きながら子を求めつづけ、川辺をさまよう子どもを捕まえようとする、というものだ。


メキシコは侵略され分断された歴史を持つ。白人のスペイン人は先住民にとっては侵略者だった。従って、白人の子を生むということは、インディヘナの血統を承継しない裏切り者とみなされてしまうのである。

 

この物語からインスピレーションを得た歌「ラ・ジョローナ」も、ラテンアメリカ各地で歌われているが、歌詞は愛の歌であったりメランコリックな内容のものであったりする。フリーダと交流のあったメキシコ人歌手、チャベラ・バルガス(1919-2012)もオアハカの民謡「ラ・ジョローナ」を歌っている。フリーダ自身もこの歌がお気に入りだったそうだ。

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アウソクロモとクロモフォロ
フリーダのディエゴへの愛の手紙は、日記中8頁にも及んでいる。ほとばしる情熱のままに暗喩の富んだ散文は、ディエゴを語る時あまりにも饒舌で語り尽くせないほどだ。ディエゴの存在は「夜の鏡」、「稲妻の激しい光」、「大地の湿り」と綴られていくように、彼はフリーダにとっての大地であり、宇宙であり、生命そのものへと続く。そこではディエゴとの性的なつながり以上に、精神的なつながりが強調されている。

日記の中でフリーダは自分とディエゴを対となる特別な名称で呼んでいる。「あなたの名はアウソクロモ、色を捕らえる」、「私はクロモフォロ、色を与える」とあり、その後に
「あなたが満たし、私が受けとめる」という言葉が続く。


だが、この二人の関係は、時に同一化した存在としても定義されている。日記中にも「私たちは同じ。以前からそうだったし、これからも。」と綴られているが、この言葉が書かれたのは1944年である。そして同年、フリーダはディエゴに結婚15周年の記念に『ディエゴとフリーダ』というオブジェを贈っているのだが、貝殻がはめ込まれたオブジェの中心に描かれている二人は、左の顔半分がディエゴ、右半分がフリーダの同一人物となっている。

彼女が亡くなり火葬された時、ディエゴはフリーダの灰を布に包み持ち帰ったそうだ。自分が死んだら灰を一緒にしてほしいという彼の願いは、結局は叶わなかったのだが…。フリーダの精神的支柱がディエゴであったことは確かだが、ディエゴにとっても彼女は一心同体であったのだろう。フリーダが逝った3年後、ディエゴもまるで後を追うようにこの世を去った。病名は心不全とある。
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フリーダが書き写した「三文オペラ」の劇中歌の一節

20世紀のドイツの劇作家ベルト・ブレヒトと作曲家クルト・ワイルのコンビの作品『三文オペラ』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」の歌詞の一部を、フリーダはドイツ語で日記に書き写している。三文オペラはロンドンのスラム街を舞台に、盗賊団のボスで色男のメッキー・メッサーが複数の女性との関係の中で逮捕と逃亡を繰り返し、終いには死刑が宣告、ところが最後の土壇場で恩赦が下り、さらには貴族にまでなってしまうという超ハッピーエンドのお話である。つまり、現実にはそんな上手い話はないという資本主義の矛盾をついた風刺作品であるそうだが、フリーダがあえてこの作品を書き写したのはなぜだろう?

 

まず、父方の家系がドイツ人であったことで、このドイツの劇作家の戯曲作品に特別の愛着が湧いたのかもしれない。

 

また、カルロス・フエンテスによると、フリーダは「アカデミックな規制から解放を果たした画家たちを賞賛した」という。さらに、「ブリューゲルの作品にある大衆的謝肉祭の中に描かれたもの、つまり現実性を伴う幻想、真昼の光の下にある内なる闇を愛した」のだそうだ。当時、メキシコでは大衆的なテントで様々な風刺的な寸劇が上映され、有名な喜劇役者が数多く誕生した。フリーダは自身でほの暗い街を求め、テントで笑い、酒場で飲み歩いた。

 

そんなフリーダとの日々を絵にした画家がいる。メキシコに亡命したシュルレアリスムに位置づけられるフランス人女流画家「アリス・レオン」だ。彼女は、親友フリーダに捧げる作品『フリーダ・カーロのバラード』という絵を描いている。濃い青を基調とした背景に、ほんのりと薄暗い明りの灯る夜の街メキシコを描いた作品なのだが、きっと二人は大衆テントで笑い、プルケ酒を飲みながら歩きつづけたのであろう。コヨアカンの街の夜の風景を、なんとも幻想的に美しく描いている。

 

こうした背景を思うと、三文オペラといった風刺劇にフリーダが魅かれたのも納得がいく気がするのだが…。

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フリーダの色彩感覚

フリーダは日記の中で、様々な色に対して抱くイメージを即興で記している。その中で特に目を引くのは、メキシコ人であるがゆえの彼女の色彩感覚だろう。例えば非常にメキシコ的だと思われるのは、赤紫が 「ウチワサボテンの実が流す古い血」の色 、茶色が 「モレ」 というメキシコの肉料理に登場するチョコレートソースの色をイメージしているところだ。また、彼女自身の経験や心の内を示す特に目を引く例は、黄色の「狂気、病気、恐怖」と、マゼンダから連想する「血」の色だろう。このふたつの色はフリーダのギリギリの精神状態を表現しているのかもしれない。

 

メキシコ人の色彩感覚は、日本人のそれとは対照的といってよいかもしれない。日本人が好む色彩は淡く優しい自然に溶け込むような色だが、メキシコ人のそれは建築家ルイス・バラカンに代表されるように、明るいローズピンクを大胆に壁面に用いるといったような色鮮やかなコントラストが特徴だ。

 

実際、フリーダの生家である 「カサ・アスール(Casa Azul)」も、「青い家」という名のごとく壁面は鮮やかな濃い青で塗られている。でも、なぜだろう?不思議なことに、メキシコに見られるそうした鮮やかな色彩には、どこか人の温かみやぬくもりが感じられる。また、そこには常に遊び心があるようにも思えてしまう。それは時に「死」をも笑い飛ばしてしまうほどの強さだったりする。

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爆弾に結んだリボン

1938年にメキシコを訪れたアンドレ・ブルトンは、フリーダの絵を絶賛し、彼女の芸術を「爆弾に結んだリボン」と評した。その後、ブルトン夫妻はフリーダにNYとパリでの個展を企画する約束をし、フリーダはNYでの個展終了後すぐパリに渡り、1939年の3月まで滞在した。しかし、パリでの個展の準備は一向に進まず、フリーダはブレトンのいい加減な人柄に嫌気がさし滞在していたブルトンの家を出て、マルセル・デュシャン夫妻の世話になる。フリーダにとってのパリ滞在は言葉の通じない孤独な日々であった。

 

ただ、ブレトンの美しき妻ジャクリーヌ・ランバとの関係は、彼女にとって特別の思い出だったのかもしれない。帰国後、ランバ宛てに書いた出港時の別れ際の手紙を、フリーダは後に自分の日記に書き写している。手紙で、フリーダはランバとパリの蚤の市で見つけた花嫁人形について触れており、「あなたの娘は私の娘」と綴っている。この花嫁人形は後のフリーダの作品『あからさまになった人生を見て怯えた花嫁』に登場している人形とのことだ。

 

ブレトン夫妻はメキシコ滞在時、サン・アンヘルにあるディエゴとフリーダの家に宿泊していた。きっと、彼女たち二人はメキシコで特別の時間を共有していたのかもしれない。

 

なお、ジャクリーヌ・ランバはブレトンと1934年に出会い、同年結婚した。ブレトン34歳、ジャクリーヌ23歳。彼女はため息がつくほどの美しい女性だったそうだ。画家でもあったランバだが、ブレトンは彼女の美貌にしか興味を示さず、結局ランバは後にブレトンと破局し離婚している。

 

 

フリーダにとって、パリ滞在は辛く孤独だったようだが、デュシャンの助けにより彼女の個展は大成功し、カンディンスキーやホアン・ミロ、マックス・エルンスト、パブロ・ピカソ等による称賛を受けた。成功の証としてよく言われるエピソードは、やはりパリのルーヴル美術館が彼女の作品『自画像(額縁)』を買い取ったことだろう。また、作品だけでなく、彼女のファッションセンスはフランスで一種の旋風を巻き起こし、有名ファッション雑誌「VOGUE」の表紙を飾ったほどだ。

 

 

フリーダの国際的知名度は、単に芸術作品だけでなく、彼女の存在そのものでもあった。




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日記にみる自動描画とシュルレアリスム
 フリーダ・カーロの日記には、いたずら書きやなぐり書きといった数々の素描が登場する。本人は素描に関して能力はないと言っていたようだが、彼女の線画に描かれる宇宙観や思想感は不可思議で目が離せないものばかりだ。

日記P10には、複数の点と線の結合からなる暗示的な素描が描かれている。点と点をつなぐ線から現れる面は、ダイヤモンドの多面体の一部を見ているような印象を受ける。点は大きくなったり小さく密集したりして、どこかしら人を不安にさせる。また、所々に描かれている絵も一見関連性がないように見えるが、やはりどこか暗示的なのだ。例えば、アステカの神のような顔と顎から垂れ下がる手。下まぶたから生える大きな瞳。123と続く数字。渦巻のように描かれた太陽。ここに現れる線画は、日記にある数ある線画の中で特にシュルレアリスムと言われる要素を強く現したものとなっている。

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象と鳩の結婚

フリーダは人生で二度の事故に遭遇したと言っている。一つめは18歳の時のバスの事故。二つめはディエゴとの出会い…。192982日、ディエゴとフリーダは結婚した。フリーダ22歳、ディエゴ42歳。「まるで象と鳩の結婚」と周囲は表現した。

 

フリーダの日記にはあらゆる頁にディエゴが登場するが、最初にディエゴに関して記されているのは彼に宛てた手紙である。フリーダが日記を書き始めたのは1944年だが、39年のディエゴとの離婚、翌年の再結婚、41年の父親の死という具合に特にフリーダにとっては辛い激動の数年間が続いていた。そんな時期に綴られた日記中のディエゴへの手紙、それはディエゴ・リベラという人物の偉大さと、かけがえのなさを説いたものだった。

 

ところで、フリーダ・カロはアメリカでとても人気が高い。メキシコでは国民的英雄は圧倒的にディエゴ・リベラだが、アメリカではドラッグ・カルチャーやヒッピームーブメントの波に「フリーダ・カロ」が取り上げられ、マニアファンが急増した。確かに意志の強い眉と個性的なファッションは、アメリカ人にとっては彼らの好む強い女性の理想像と重なったのかもしれない。だが、本当の彼女はどうだったのだろうか?『フリーダ・カロ ―引き裂かれた自画像―(堀尾真紀子、中央公論社 1991)』を読むと、晩年に勤務した美術学校の弟子たち(ロス・フリードス)の1人の回想録では「自分は絵描きになんてなりたくない、長生きして可愛いおばあちゃんになって、抽き出しの中の細々したものを整理していたい」と話していたのだそうだ。

 

フリーダがメキシコ人の民族衣装を着るようになった理由は、決してアイデンティティの表明からだけではない。障害の持つ足を隠すためであり、民族衣装をまとう自分をディエゴが好んだからでもあるのだ。なりたい自分と現実の自分の隔たりは深い…。


フリーダカ―ロのいるメキシコのイメージ


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